米株ばかり記載してプログラミングを記載してないので投稿してみる。
暇つぶしに、
人間における「もの」の認識システムの原理の一つと私が考えていることについて記載してみる。(プログラムではないですね、、、、)
注)これは私個人が勝手に考えていることであり、根拠(エビデンス)も科学的なデータもない。その点はご承知ください。
目的:人間における「もの」の認識システムの原理の一つと考えていることについての説明
内容:
さて、人間が「ものを見て何かを認識する」。そのために必要な最低限度のシステムは何だろうか。私は「区別」だと思っている。よく「線引き」という言葉を私は使う。具体的には「同じ」か「違う」か区別する必要があるということだ。そして、「同じ」か「違う」か区別するには「1つの判断基準」が必要になる。その判断基準を線と述べ、「線引き」と呼んでいる。簡略化して述べるなら、「化学実験における相対比較試験」である。
「もの」を同じものか違うものか区別するには判断基準(指標)が必要になる。例えば、あなたの前に河原の石が2つ目の前にあるとしよう。これを見て、人によっては同じ河原の石だろうという人もいれば、石の形が同じねという人もいるし、石の形が異なるねという人もいるだろうし、石を構成している分子ないし原子の成分含量が異なるという人もいるだろう。何が言いたいかというと、同じか違うかを区別するのに「基準となる判断指標が必要」という点である。上記の例でいえば、石の「発生源」が同じなので「同じと区分」し、「形」が同じに見えるぐらいの違いだから「同じと区分」、逆に細かいところが違えば違うものだから「違うと区分」、「成分含有量」が違うから「違うと区分」することもある。
見た目が全く同じものが目の前に2つあったとしても、その人が考える「判断基準の指標」によって「もの」が「同じもの」と「違うもの」に区別され、それが何度も繰り返され、違うものとして区分され続けたものはそのもの特有の名称がつけられる。つまり、「違うと判断した指標の累積がそのものであるという判断基準になるのである。」。これは、ただ一つのもの(ただ一つの名称)になる可能性もあるし、包括された区分の名称になることもある。
例えば、リンゴで考えてみよう。
スーパーでリンゴの袋(2個入)を買い家に帰った。
見た目、色、剥いたときの感触は全く同じリンゴで2つとも食べた。その2つは味が異なった。その人にとっては見た目が同じだったから同じリンゴだったが、味が異なったことによって同じではなく違うリンゴになったのだ。人によっては味が違っても同じ袋に入っていたリンゴなので同じリンゴという人もいれば、味が違うから違うリンゴという人もいるだろう。この2つのリンゴが同じか違うかはその人の判断基準により異なるということだ。ただ、おそらくの味が違うと考える人でもこの味の違いで2つのリンゴに唯一の名前を付ける人はいないだろう。これほど高度な処理(判断指標(基準)の累積により別物と区別)をしても、これらは包括された概念であるリンゴとして区分され、その内容は会話の中で「味が違うリンゴだったよ」の一言で終わる。
人間は会話の中でこの類の区別を1日の中で何百、何千と意識せず、繰り返し行い会話している。この速度は現代のコンピューターの検索速度を超えているだろう。人間の会話は非常に知的で複雑、また非常に高度なものであることがこのことだけ考えても伺える。
学問も統合と分化が繰り返され発展(未知に対する模索)してるので、この概念は人間の思考プロセスの根幹をなしている一つではないかと疑っている、、、証明方法は、、、、思いつかない。唯一の思いついた方法は背理法かな。
補足
上記のことが何に使えるかというと、例えば赤ちゃんに対して、箱にものを入れて片付けるという行動の習慣化は上記で説明した「もの」の区別化であり、抽象化と細分化、また細分化したものの統合(抽象化)の能力を鍛える訓練の一つになるよというお話でした。
片付けるのが得意な人(細分化より)、苦手な人(抽象化より)とも見ることができるかも、、、、。
単に得意な人(体を動かすのが好きな人)、苦手な人(体を動かすのが嫌いな人)とも見えるし、いろいろですね。
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